1946年6月9日版 「日本の降伏の決定」の訂正 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections /bomb/large/documents/index.php?documentdate= 1946-06-20&documentid=16&studycollectionid=abomb&pagenumber=2) |
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(* ()は6月19日版) | ||
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3.日本の降伏の決定 | ||
日本の指導者層の戦意及び戦争放棄の決定に与えた原爆の影響のさらなる問題は、その他の因子と密接に結びついている。原爆は、投下目標地域以外の各階層の民間人の戦意に与えたのより、日本政府の指導者層の考えにより大きな影響を与えている。しかしながら原爆が、降伏による平和必要性に影響力をもっている指導者層を得心させたかというとそういうことは出来ない。戦争を終結させる道と方法を模索する決断は(降伏への決断は)部分的には、一般民衆の士気の一番低い状態に関する知見に影響を受けており、(6月26日に天皇臨席のもとで開かれた最高戦争指導会議にその最初の決断を見ることが出来る。)、1945年5月までの最高戦争指導会議でその方向への第一歩が取られていた。 (しかしもちろん政府関係者の影響力のある人たちの合意を得るには至らなかった。) 1944年の春までには、前・元首相たちと天皇側近の人たちがグループを結成し、戦争を終結に導こうという努力がなされていた。このグループのメンバーは岡田大将、米内大将、近衛殿下、木戸侯爵などを含んでいる。このグループは東条辞任に影響力を発揮し、小磯内閣崩壊の後鈴木大将を首相にした。 (以下、略-以降は異同なし。) |
(*岡田大将 | 岡田啓介海軍大将。2・26事件当時の総理大臣 詳しくは以下へ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E 5%95%93%E4%BB%8B。 原文にはadmiralとしてあるので提督という訳語も考えられるが、当時米国海軍ではadmiralは称号ではなく階級だったことを考えると大将の訳語がふさわしい。) |
(*米内大将 | 米内光政海軍大将。1940年当時の総理大臣。詳しくは以下。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85% E5%85%89%E6%94%BF#.E7.95.A5.E6.AD.B4) |
(*近衛殿下 | 近衛文麿。原文はPrince Konoye。3度総理大臣を務めている。戦前・戦中、日本支配層による最大のミスキャスト。詳しくは以下。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B% E6%96%87%E9%BA%BF) |
(*木戸侯爵 | 木戸幸一。昭和天皇の側近中の側近。戦前・戦中最大の日和見主義者。詳しくは以下。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8% E5%B9%B8%E4%B8%80) |
(*東条 | 東条英機。陸軍大将。太平洋戦争開始時の総理大臣。軍人と言うより細かい事務屋だった。詳しくは以下。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E 8%8B%B1%E6%A9%9F |
(*小磯 | 小磯国昭。陸軍大将。東条辞任の後を受けて総理大臣。詳しくは以下。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF% E5%9C%8B%E6%98%AD |
(*鈴木大将 | 鈴木貫太郎。海軍大将。小磯の後を受けて総理大臣。日本はこの総理大臣の下でポツダム宣言を受け入れた。詳しくは以下。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E 8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E) |